「シベリウスの2番を聴く」47・・・市河彦太郎とシベリウス
このところ縁あって、シベリウスと親交のあった昭和初期の外交官、市河彦太郎の足跡を調べています。

市河家は江戸期からの沼津の豪商で廻船業を営み、油も商っていたこともあり、当主は油彦とも呼ばれていました。清水次郎長が借金の無心に来るほどの家だったといわれています。

20数年ほど前に、私の家の近くの地蔵堂を建て直す際、古い御堂の天井裏から古ぼけた和太鼓が見つかりました。
皮は破れていたが見るからに古そうな趣。その胴の内側には墨の色も鮮やかに市河油彦の文字が書かれていました。
どうやら江戸期に市河家から伝わったもので、当時の青年たちの夜学校の集まりの合図に使われたものであることが、一緒に見つかった古文書から判りました。

市河彦太郎は昭和初期の市河家の当主。

市河彦太郎は小説家芹沢光治良の旧制沼津中学の一級上で、若き日の芹沢に文学の世界で大きな影響を与えています。 東大法学部卒業後は外交官となり、フィンランドとイランの公使を務めています。 このフィンランド公使時代(1933−37)にシベリウスと親交がありました。

市河彦太郎は、1933年4月にフィンランド公使としてヘルシンキに赴任しました。
当時のフィンランドでは、日本人は日本公使館の人くらいで在留邦人は皆無。その公使館もスウェーデンにある日本公使館の出張所で、職員は彦太郎たった一人という状態でした。

公使館は、ヘルシンキの南のフィンランド湾を見下ろす住宅地の、6階建てのアパートの最上階の半分を占めたところにあり、目の前は「カイボ」公園。

ある日、彦太郎がその景色とフィンランド湾の美しい風景に見入っていると、同じ6階に住む隣の家から美しいピアノの音が聞こえてきました。

とても素人のすさび程度ではなく、あまりにも見事な演奏なので、彦太郎は知人に尋ねてみました。
そして日本公使館の隣に住む人が、シベリウスの次女「イルヴェス夫人」であったことを知り驚きます。

市河彦太郎の「文化と外交(岡倉書房 昭和14年発行)」には、彦太郎がシベリウスと初めて出会ったときのことが書かれています。

以下引用

・・・・・ある春の日、外出しようとして「エレヴェーター」にのって下に行かうとすると、そこに立派な老人が先に乗っていた。それが「シベリウス」であることはその顔付ですぐわかった。
「失禮ですがシベリウスさんですか?」
「さうです」
それ以上の話をする前にもう別れなければならなかった。しかし別れ際に「シベリウス」は又一度私の方に歩みよってきて言った。
「日本はいま丁度秋ですかね?」
「いいえ、そんなことはありません。やはり春です。」
「あぁ、さうですか」
こんな会話を交したあとで彼はすたこら歩いて行ってしまった。
私はあとで一人でその会話を思ひうかべながら何度も何度も微笑んだ。
そこには芸術家らしい、のんびりしたところがある。
しかし考へて見れば一般の「フィンランド」人でさへも「日本はいま丁度秋ですか?」
程度の理解を日本について持っているのに過ぎないかもしれないぞと思ってだんだん寂しくなっていった。・・・・・・・・・・

その後彦太郎は、長く住む間にシベリウス本人やその家族とも親しくなっていきました。

「市河彦太郎略歴」

旧制沼津中学校卒業 在学中に一級後輩の芹沢光次良とともに同人誌「たんぽぽ」を主宰。
東京大学法学部卒業
外交官として上海、マカオ、ニューヨーク、カルカッタ、フィンランドへ赴任。
外務省文化事業部第三課長、同第二課長の後イラン特命全権大使。
昭和21年4月、森田豊寿の衆議院議員選挙の応援演説中に倒れ急逝。享年50歳。

日本の文学書を「たんぽぽ文庫」と称して赴任先の海外の図書館に寄贈。
芹沢光次良の「人間の運命」に出てくる外交官石田のモデル。 妻は後藤新平の孫。
エスペラント語にも堪能、エッチングやペン画もたしなむ大変な教養人でした。
(2010.05.12)