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「悲愴」を聴く37・・・エピローグ
おそらく300種を超えるであろう「悲愴」の録音。結局今まで聴いたのは約100種類ですが、実際紹介することが出来たのは70種ほどでした。

私にとって「悲愴」はどちらかといえば苦手な曲で、当初から出ている録音全部を聴いてやろうといった無謀な企ては持っていませんでしたが、自然に手元に集まっていたり
図書館から借りたりして聴いた結果がこれです。
一時全曲聴き通すのが苦痛となっていた時期もありましたが、定演直前からは、
次第に聴くこと自体が楽しくなってきました。
練習が進むにつれて、曲に対する理解が次第に深まってきたからということでしょうか。

ところで、数多くの楽曲の中で「悲愴」ほど数多くの強弱記号、速度記号そしてユニークな発想記号が具体的に書きこまれた曲は珍しいと思います。
それだけ楽譜に書かれたとおり忠実に演奏すれば、ある一定の水準には達する曲という
ことで、実際ベートーヴェンやモーツァルトの演奏は良くないのに、「悲愴」は良い
という演奏者の例はいくつかありました。

ところが、チャイコフスキーがくどいほど具体的に書きつけた発想記号などの記号の数々を、ほぼ完全に再現していたのは、私が聞いたかぎりでは、ドラティとアバド&シカゴ響の録音のみだったように思います。
フルトヴェングラーやメンゲルベルクといった20世紀当初に活躍した二人の大指揮者が
「悲愴」の録音歴の初期に決定的とも言える名演を残したために、
このある種恣意的な解釈の呪縛が、ほぼ20世紀全般に渡って大きな影響力を持ってしまったということかもしれません。
今回は紹介できませんでしたが、チェリビダッケやバーンスタインといった20世紀後半の大指揮者二人の極端にデフォルメされた演奏を聴いて、なおさらその印象を強くしました。

「悲愴」といえば、咆哮するブラス地響きをたてる低音といったロシア的な演奏を想像しがちですが、ムラヴィンスキーやスヴェトラーノフ、そしてフェドセーエフといったロシアを代表する名指揮者たちの録音は、どちらかといえば都会的に洗練されたものであったことを最後に付け加えておきます。

(2003.07.06)
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